【後編】誰が為に君は笑う・・・⑥

吉平が去ると、ナックル家には元の静けさが戻った。置き去りにされた器は冷たくなり、倒れたコップから零れた水がカウンターを伝い、床を濡らす。入口の引き戸は開け放たれたままで、そこから夕暮れの生温かい空気がじんわりと入り込んで来る。
店内には、カウンターに隣り合って座る黒尽くめの女と幼い子供。そして、もうひとり。
「おや、大変だ。これは食い逃げじゃないのか?」
沈黙を破った女は、いかにも一大事だ、とばかりにうろたえた声でおどける。
「余計な口出しをするな。これは俺の仕事だ」
答えるのは、男の声。凍て付いた刃のような口調。
「随分な言いようだな。私はただ、食い逃げの現行犯を目撃しただけだが・・・・・・」
「そっちじゃない」
不機嫌さを隠さない男のトーンに、女はクスリと笑う。
「冗談だよ。今回のナイトはいささか当事者意識に欠けるようだったからな。既に盤の上だということを知らせようと思ってね。
 それにしても、今回のキングは手緩いな。ポーンの使い方は知らないし、ゲームを勘違いして敵に懐への侵入を許してしまった。独力ではルーク以下のキングが、クイーンに敵う訳がない。チェックメイトは近いな
しかし、相変わらず上の考えは理解に困る。契約者の存在が公になることを防ぐにしても、わざわざ彼女クラスを派遣する必要はないと思うのだが・・・・・・。まあ、これも何かあっての采配なのだろう。
ねえ、名も無き偵察者〈エージェント〉さん?」
愉快そうな勘繰りに、答える声はない。
「なるほど」しかし女は満足げに得心する。「今回のキングはあっちか」
「動いた」
出し抜けに、子供がポツリと呟いた。表情は一切動かさず、姿勢もカウンター上の本に右手を置いたままを維持している。
女は子供に顔を向けると、またクスリと笑った。絹の手袋を填めた手を伸ばし、子供の髪を撫でる。
「さて――――――」
女は独りごちる。
まるで、子供に語りかけるように。
まるで、棋譜通りのエンディングを待ちわびるかのように。
「ナイトはクイーンを守り切ることができるのだろうか?」

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